喫茶と読書 ひとつぶ

20200815

なぜか朝からずっと日曜だと思い込んでいて、仕込みとか買い出しとかちぐはぐになってしまいました。こういう変な勘違いとか思い込みが、年々増えているようで怖いです。

2、3日前にTwitterで知ったのですが、国語の教科書から小説が消えるみたいですね。また、小説家が書いた日記だとか評論もなくなるということです。

このことはたいへん恐ろしいことだなと思います。教科書には、かわりに契約書などの文章が載るらしいです。「国語」って「日本語」って一体、私たちにとってなんなのでしょうか。契約などの法的な文章しか読まない人生なのであれば、母国語が日本語である必要があるのでしょうか。

小説、物語、詩。これらの創作物は、技術的なものと比べて、具体的な何かは残さないかもしれない。便利ではないかもしれない。でも、そういうものを読むことによって、時間や空間、性別や年齢といった制限を超えて、世界を見ることができたり、目には見えないものの存在に気がついたりするのではないでしょうか。自分が薄々気がついてはいたけど、目をつぶっていたことや、逆に正しいと思っているのに大声で言えなかったこと、何が本当で、正しいのか。ある時代には正義だったことも、別の時代になれば悪になる。逆もまた然り。どんな時に人は負けてしまうのか、自分に勝てるのか。そういうことを文学からずっと教わっているような気がするのです。

読みたくない人は読まなければいい。でも、学校で、教科書で見なければ、そういう世界すら知らなかった、という人もいると思う。多感な小学生から高校生までの間に、何かを得る機会を失ってしまうのではないでしょうか。

実学は、科学は、確かに大切なものだと思う。でもそれと同じくらい、文学や美術や音楽も人間にとって大事なもの。経済と娯楽、要と不要ではない。想像力がなければ、未来を創造することは難しいし、技術があっても、それについていける心がなければ、ただ道具を使う人、これからは道具に追われる人になってしまうのではないだろうか。

国語の教科書から小説が消える。そんなことを決められているのが、本当に怖い。そういう政治を許してしまっている自分たちが恐ろしいと思う。