20200113
成人の日。とてもよい天気でよかったね。
さて、一昨日、下北沢B&Bさんで今福龍太さんと小川洋子さんの対談に行ってきました。発表されて、少しだけ迷って、申し込んだイベントでした。到着が割とギリギリになってしまって、店内に入ると、店全部を使って椅子がずらっと並んでいて、ほぼ満席。すごい人気。着席して間も無くお話が始まりました。
そこからの1時間半、面白くてわくわくするような言葉がどんどん生まれてきて、とてもよい時間でした。生活をする中で、ひょいっと脇において忘れてしまっていた大事な持ち物を、再発見したような、そんな気分でした。
エオリアンハープ/むかさり絵馬/津軽では花嫁人形を奉納/亡くなった子供の婚姻の絵/死後の成長/クロスライティング/暗号/読みづらい筆跡/葉脈に近い/絵を描くように字を書く/物質間のある文章/前言語/言語による理性/字を大きくせず、自分が小さくなる/誰かを助ける為には愚者でなければならない/言葉を教えることは暴力/土偶 かかし 彫刻/生の前の死/人間の時間から切り離される/冥婚/メキシコではなくなった子供の写真を撮る/天使の格好で埋葬する/アンヘリート/生まれ雨ことによって不死を失う/生き残ったものたちが獲得するはずだった言葉を取り戻す/完成とは人間が作り出すもの/理屈を超えたところにも世界がある/言葉を獲得する前に歌を歌っていた/ステラ/ダンテの新曲はステラという言葉で終わる/morning star
メモにはこんな言葉が書きつけてある。そして、割と冒頭に今福さんが、文を書くという長い歴史の中に自分はほんの小さな場所を与えられている、というようなことをおっしゃっていて、シャーマンという言い方は大袈裟な感じがして好きではないが、何かが降りてくるという感覚というのはあるのだなと思った。そしてこれは最後の方で小川さんが、写経をしていて、こんなふうにうっすら文字が透けていてそれをなぞればいいというのはいいなあとおっしゃっていて、会場からは笑い声も起きていて、それが作家の実感なんだろうなあとしみじみとした。この二つは当然矛盾していなくて、体の中にある物語を、言葉に定着させる作業、それが作家の仕事なんだろう。その物語は、作家個々人が持っているものではなくて、人類の記憶みたいなものという感覚があるのだろうなと思いました。
サイン会の列に並んでいる間、B&Bさんの本棚を眺めていて、またまた欲しい本が何冊か。最近思うのですが、本屋の棚というのは自分の発想や元気の源だなと思って。もやもやしている時に、本屋の棚を次々眺めていくと、すうっと落ち着いていくときがあります。先人の知恵がいっぱい詰まった棚なので、当然といえば当然でしょうか。だからやっぱり本屋さんがなくなるのはとても困ります。
実は下北沢に行く前に、谷根千に寄り道をしていました。時間が少ししかなかったので、おにぎり屋さんでランチをして、雑貨、食器をちょこっと買って、最後に往来堂書店さんへ。初めて伺いました。とてもよい本屋さんでした。あんな本屋さんが住んでいる町にあったら素敵ですね。あの棚を糧にして育っていく子供たちもいると思います。学生時代に住んでいた町には普通の新刊書店と古本屋がありました。ほぼ毎日どちらかには立ち寄って棚や平台を眺めて、何冊かの本は手にとって立ち読みしたり、めくったり、買ったり。よい町だったなと思います。近くのカフェで買った本を読んだこともありました。古きよき時代でしょうか。