喫茶と読書 ひとつぶ

20241021

こんばんは!今日は今まで一番タルトタタンが終わるのが早かったかもです。平日なので最後は残っちゃうかなあなんて思ったら大間違いでした!たくさんご用意できなくて本当にすみませんでした。来年は少し考えますね。もし去年も同じようなことを言っていたとしたらごめんなさい。たくさん焼けるように何か考えます。

仕込みが薄かったせいで、何もかも終わってしまった感じです。カレーとプリンが少し。ありがとうございます。

早い時間は忙しかったのですが、夕方くらいからゆったりした感じになって、結構久しぶりに集中して本を読んでいました。まだ半分くらいなのですが、『テヘランでロリータを読む』です。第1章がこの表題通りのナボコフを読むパート、2章目はフィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』を大学の教授である著者が授業で取り組んだ話でした。今第3章を読み始めたところ。私はタイトル通り、『ロリータ』の読書会の話が1冊になっているのだと思っていたので、第2章は初め戸惑いました。ロリータを著者の家で女性8人と読む、というスリリングな話は、それぞれのキャラクターや背景の説明などがとても面白く、この人たちがどんなふうになっていくんだろう、と思っていたからです。ところが、この第2章がまたとても面白い展開を見せるのです。時代的には第1章より前になります。アメリカから帰国してテヘラン大学で文学を教えている著者と、それに対して宗教的な理由で抗議してくる学生との対決、対話です。『華麗なるギャツビー』を、アメリカの堕落の象徴として捉える学生との対話を試みるために、著者はこの作品を裁く裁判を授業で行うのです。これはとても読み応えがありました。教授である著者より、さらに弁がたつ弁護士役の学生が登場。「不注意」という観点から見事にこの作品を弁護します。そして著者はその後、このような結論に至ります。

「イランの私たちとフィッツジェラルドに共通するのは、私たちに取り憑き、現実を支配するに至ったこの夢、この恐ろしくも美しい、実現不可能な夢、実現のためならどれほどの暴力を使っても構わないような夢である。」

文学というものは、このように現実を深く抉るものなのですね。素晴らしい分析だと思います。思った以上にこの本は面白いです。ドキュメンタリーかと思っていましたが、文学評論でもあります。続きも楽しみです。(『テヘランでロリータを読む』アーザル・ナフィーシー著・市川恵里訳・河出文庫・2021年11月)

さて、それでは帰ります。今日は長野からママが来てます!あ、木曜日からはカレーは豆のカレー、スープはいよいよポトフにしたいと思っています。おやつがちょっと未定です。柿のタルトかビクトリアケーキかなと。プリンとスコーンもあります。それではおやすみなさい。