20201010
昨日に引き続き、読んだ本です。ザミャーチンの『われら』。読みました。昔古本で買った本なので、字が小さくて2段組でした。でもそんなに長くなく、思ったより読みやすかったです。
最近凝っているディストピアものの元祖、と言ってもいいのでは?書かれたのは1920年代、ソヴィエト。ロシア・アヴァンギャルドの只中ですね。wikiのザミャーチンの項目には、ロシアアヴァンギャルドとの関連については何も書かれておらず、むしろ『われら』などの著作が反体制ととらえられて、逮捕され、投獄されてていたとのことです。この小説を映画化したら、ロシア・アバンギャルドの世界になりそうな感じですが。
今読んでもとても面白い、そして優れた視点を持つこの作品の作者が、時代の華のような潮流には乗っていなかったというのは、ちょっとびっくりしました。政権から疎まれるというのは、ディストピアを描いているので、納得です。時の政権にとっては、デフォルメされているように感じるところもあったのでしょう。
でも、ザミャーチンが描きたかったのは、果たしてディストピアとか、社会風刺だったのかというと、そういう印象はないです。「愛」だったのではないか、と思ったのです。主人公のD503号は生活も仕事も何もかも投げ打って、I330号への愛を叫ぶ。ロシア人ってこんなに情熱的だっけ?と思うくらいに。なぜ彼はそんなに彼女に惹かれたのか?彼女が古代の匂いをまとっていたから。現在に対して全くの疑問を持っていなかったDなのに、Iと関わっていくことで、システムに対して疑問を抱いてしまうのです。でも、それは知的なものではなく、ひたすらにIを求める気持ちからなのでした。「愛」とを認めずに「性」だけが配給される世界。「愛」を知ってしまったDにはそれは味気ない世界だったのでしょう。IとO(体制から派遣される女性)を対比していったら、もう少し明確になるのかもしれません。もしかしたらフェミニズム的な読み方もできるかも。
未来において、なぜ「愛」は禁止されないといけないのでしょうか。多分、それが一番人間らしい感情であり、同時に人間を不幸にするものだからなのでしょう。これがなければ、人はもっと楽になり、そのほかの活動にエネルギーを費やすことができると、そう解釈されるからなのでしょう。今でも描かれるその設定の源流が、この「われら」なのですね。
まとまりのない感想になってしまいました。ディストピア小説はまだまだ読むつもりです。『侍女の物語』『日没』この辺りが、今日書いたものと交錯しそうです。
本日も雨の中お越しいただき、ありがとうございました。明日もよろしくお願いします。